現役大学生が聞く”CIジャパンスタッフの「世界を舞台に働くとは」” 第2回目 名取 洋司 vol.3

名取さんの大学・大学院生活を通してどのように”今の仕事”につながっていくのでしょうか?

生態学+環境心理学の研究

木勢:アルバイト経験以外に、例えば…..趣味とかはありましたか?

名取:読書に時間がかかる人で、だいたい教科書読むので日が終わっていたのです(汗)。もうちょっと別のこともやればよかったのですけどね。地学のGeology Museumでボランティアして、ワイオミングなどから取ってきた石というか土の固まりから、恐竜の骨の化石をピンセットやナイフを使って慎重に取り出していました。おもしろかったですよ。そういうこつこつとしたのが好きなんです。

木勢:何はともあれ充実した生活を過ごされていたのですね。ということは、学部生から博士号までずっとアメリカにいたということでしょうか?

名取:夏休みに日本に帰ってきていました。授業のある春・秋学期の時はアメリカに行って、5月の終わりから8月いっぱいと年末年始は日本に戻っていました。このサイクルをおよそ10年続けていました。

木勢:それでは研究テーマも日本に関わるものだったのでしょうか。具体的にどのようなものでしたか?

名取:出身の「中郷村の環境基本計画作り」が、修士のテーマでした。博士論文の時は、中郷村を含む5市町村からなる広域の環境基本計画に関係付けながら、景観生態学の研究をしました。土地利用・被覆の変遷だとかを空中写真から調べて、その変化が生物と人の意識に与えた影響を検証するという、生態学+環境心理学の研究でした。今の仕事でも深く関わっていますが、SATOYAMAを研究していたのです。

木勢:長い大学時代を振り返っていかがですか。

名取:アメリカに行ってよかったのは、糸の切れたタコになれたので、専攻もいろいろ試せたからおもしろかったことです。時間が戻ったとしてもアメリカ行くっていう選択をやっていたかなぁ。日本の大学も知りたかったけどね。どこでというより何をやるかだと思います。

木勢:そして大学院ご卒業後はどうしていましたか?

名取:修士を終えて日本に帰ってきて、自然環境研究センターに研究員として就職しました。在職中に1年間、環境省の野生生物課に出向していました。自然環境研究センターでは、保護地域管理や環境保全計画に関する案件に関わっていました。国際会議のオーガナイズをしたり、海外の会議に参加したりってことも。秋の紅葉のころに一日山の中で、シカ、カモシカ、ニホンザルの生息調査をする、というなんとも過酷な仕事もありました(笑)。一方、修士では中途半端だと感じていたので、就職後4年目に再度留学することにしました。幸い、フルブライト奨学金がもらえたので、実現したのです。ドクターのときは、ティーチングアシスタントをやって学費を賄っていました。生物学入門というコースの。前にも言いましたが、自分は生物学者ではないので、教えるのは苦しみましたが(オフィスに遅くまで残って準備していたので、掃除の人と仲良くなりました)、一番困ったのは、学生の方でしょうね!博士号を取得後は、再度日本に帰国しました。戻った時には、日本生態系協会1年半にお世話になり、そしてCIには20084月に入ったという経緯です。

木勢:CI入社後の苦労でいうと例えば何がありましたか。

名取:例えばですが、いま環境学をやるようになってから、高校のときに絶対にやらないといっていたのを全部やらなければいけなくなって、困ります(笑)。社会学、経済学、古典みたいなのもたまにやらなければいけないし、法律っていうのもでてくるし、ほぼすべて。

木勢:最後に、CIスタッフとして多岐にわたる業務に取り組んでいる中で、今後の抱負や課題意識はありますか?


名取:生物多様性が重要と言われて何十年も言われているけど、取り組みはなかなか進まないのが現状です。極論、生物多様性ということば自体は知らなくてもいいかもしれません。計画に携わる人は知らなきゃいけないけど、一般人が知らなければいけないというようなことではないと思います。もっと重要なのは、個人の判断が意識しなくても生物多様性に配慮されたものとなるような制度や仕組みをつくることだと考えています。比べるものがあった時に「こっちにしよう」と思った判断が、自ずと生物多様性のためにいいことであるような制度・市場っていうのをつくりたいですね。

木勢:名取さん、お忙しいところありがとうございました!!

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