現役大学院生がきく”CIジャパンスタッフの「世界を舞台に働く」”とは 第4回目 磯部 麻子 vol.2

こんにちは。 CIインターンの菊池です!

Vol. 1に引き続き、磯部麻子さんのインタビューです。(vol.1を読んでいない方はこちら)

前回は磯部さんの現在のことを中心にお伺いしましたが、今回はCIジャパンの中でも異色といわれる磯部さんの経歴についてお伺いしました!

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磯部麻子 Asako Isobe
コンサベーション・インターナショナル・ジャパン 広報担当、マーケティング&コミュニケーション シニアコーディネーター

東京都大田区出身。成蹊大学卒。20歳前後からオーストラリアやアジア各地を旅した経験をもとに在学中、自然や少数民族文化をテーマにした輸入雑貨業を起業。その後IT業界、外資系企業において、主に企業のブランディングに関わるプロジェクトに携わる。その後、元々大好きだった自然に携わる仕事がしたいという気持ちが強まり、2010年よりCIジャパンに参加。CIのグローバルネットワークを活かしながら、SDGs達成へ向けた普及啓発に取り組む他、CIジャパンが実施する国内外プロジェクトのコミュニケーションを担当している。

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菊池:今回は磯部さんがCIで働くようになるまでの経緯をお聞きしたいです!

磯部: 私、子供の頃は自分に自信がなくて。団塊ジュニアの世代で、ひとクラス40人5クラスあるような大人数の中で、運動神経だけは良かったので、リレーや水泳大会など、人前に出ることはありましたが、自分の意見を堂々と伝えたり、好きな子に話しかけたりできない子でした。おそらく、私はこれ!と自信の根拠に思えるものがなかったからで、そんな自分がイヤでした。だから一歩踏み出すために、6年生のときに勇気を出して生徒会選挙に立候補しました。その後は自分に自信をつけるために、自分が大人になった時はこういう風になりたい、というイメージを強く持って、勉強もスポーツ以外も、ボランティアから夜遊びまで・・笑 10代はいろいろなことにチャレンジしてきました。

菊池:大学時代はどうでしたか?

磯部:大学には 3年次編入で入学したのですが、海外で生活したい気持ちが強く、休学してオーストラリアに行きました。その間に色々な御縁が重なり、たまたま新宿の空き地でログハウスを使ったビジネスをされている会社さんと繋がり、民族とか自然の世界観をアイテムにしたお店をオープンすることになったのです。

菊池:すごい、何のお店ですか?

磯部:ハンドメイドのエッセンシャルオイルやハンドソープ、キャンドルなどの雑貨やパワーストーンを使ったアクセサリ、染服なども扱うニューエイジショップです。オーストラリアでは、ヒッピーコミューンにいた時期があり、いろいろな出会いがありました。山奥で生活している人たちはそれぞれ、家を建て、水を引いてきて、食べ物は栽培し、また、絵や音楽など、みんなが何かしらを作れる“アーティスト”で、すごくクリエイティブな環境でした。当時若干20才の自分には、皆が格好良く見えましたし、自分の知っている日本との違いにカルチャーショックが大きすぎて、その後どの方向へ人生を進むか、ものすごく迷いましたね…選択肢があったことが、贅沢な悩みですが、逆にとても苦しかったです。

多民族な文化の風景に出会って感動しているときに、ちょうど知り合いが、東京の新宿に新しくログハウスを借りて店舗経営をするのでアイテムを探しているという話があって。

菊池:すごいつながりですね!

磯部:そうなんです。それで、お店を開くために、オーストラリアのメーカーに片っ端から電話をかけて、あちこちへ商談に行くことになり、毎日本当に忙しく働いていました。間違いがあったら困るので、何度も理解するまでやり取りを繰り返したので、それで最初の英語力が鍛えられたように思います。

磯部:それで、そのお店は大学卒業してからも25歳くらいまでやっていました。

菊池:すごいですね。その後どうされたんですか?

磯部:とても苦労しました。小売で食べていけないので、カタログを自作して、卸業を始めて、飛び込み営業もしていました。3年間猛烈に進んでいた自分でしたが、いろいろなことがしんどくなって、整理したくなり、切り替えたくて、独学でやっていたカタログが楽しかったので、広告代理店の制作部にアルバイトで入りました。そこで自社WEBサイトを制作するという話を声かけていただいて。とても楽しくてハマり、HP制作のプロの世界を見てみたいという気持ちが強くなりました。自作作品で、アイ・エム・ジェイという会社に採用されました。業界でとても知られた会社だったのでまさか素人の自分が採用されるとは思ってなかったけど、ルールを完全無視したデザインを面白がって頂いたみたいです。とてもラッキーでした。

菊池:すごいバイタリティですよね。

磯部:数年後、別の会社で、主にWEBディレクターをさせていただいたのですが、そんな中で、やっぱり、もう一回ちゃんと英語をやりたいという思いがあり。30歳になるときにすべて辞めて今度はカナダに行きました。

菊池:それは、一旦お仕事を辞めて・・ということですか?

磯部:そうですね…全部。仕事もプライベートでの付き合いもやめました。“私には時間がないんだ”という感覚がとても強くて、いつも焦っていて、友人からは「麻子は生き急いでいる」と言われていました。

菊池:面白いですね。カナダもワーホリで行ったんですか?

磯部:はい。20代の頃は、「30才になったら目の前にいる人と結婚しよう」と思ってたんですけどねー。結局、真逆の行動に出てしまいましたね。笑

モントリオールにて
カナダではWWOOF(※ロンドンで始まった農業体験と交流のシステム)を利用して、オーガニック系の農家に数カ所滞在して、農作業を手伝う生活を送っていました。電気も通っていないようなファームで、野菜づくりを手伝って、育てた野菜を地元のレストランやファーマーズマーケットで売るお手伝いをしていました。ベジタリアンだらけの多国籍コミュニティで、料理担当もしていました。大地に根ざした生活の感覚はありましたが、東京から来たというと、都会っ子とバカにされると思って、ずっと気張りながら、ワイルドな生活をしていたため、バンクーバーに戻って電気生活のありがたみもつくづく感じたのを覚えています。

菊池:すごいですね。それでどうやって広報の仕事にたどり着いたのですか?

磯部:帰国後、英語環境で仕事をしたいと思って、「メトロポリスマガジン」という英字のフリーペーパーを出版している会社で広告営業をやらせて頂きました。インターナショナルなコンテンツ制作、イベント開催など楽しい環境でしたが、自分のやりたい仕事ではないと感じていて。30代前半になっていて自分が何をやっていきたいか真剣に考えなきゃと思ったのです。

自分が本当に好きと思えること…人と話すのが好きだから、伝えていく仕事をしたいなと思って。それで、広報にたどり着きました。シューズブランドのニューバランス、アパレル部門で、広報職に着いたのが初めての広報職でした。その後、リーマンショックの頃、もう一度仕事を考え直す機会が生まれ、たくさん悩みました。その時、導かれるようにハワイ島へ飛び、そこで一人で旅して色々考えていました。そして、私はやっぱり自然が好きだって思ったんですよね。

ずっと企業で働いてきたからNGOという選択肢は、思いつきませんでした。でも前職の上司に相談へ行ったら、自然が好きならNGOがいいんじゃないかって、アドバイスをくれて。常に何かを探している感じがするから、信念に基づくそっちの方がしっくりくるんじゃないかって言われて。目からウロコでした。私は、物事の本質的なことにしか関心がないので、地球に関わることって、人間の生活のすべての基盤でもあり、それを仕事にできるっていうのは、素晴らしいだろうな思ってすぐ調べました。そこで見つけたのが、コンサベーション・インターナショナルだったのです。もともとどんな自然保護も、社会は経済活動と切り離せないと思っていたので、企業とのパートナーシップに力を入れているところがとても魅力的に感じました。しかも!ちょうどその週の金曜日〆切で広報アシスタントを募集していたのです。

菊池:奇跡ですね!!!!

磯部:タイミングですよね。実はその時、複数面談を進めていて、別の外資企業から採用のご連絡内定を頂いていたんです。お給料も悪くなかったのですが、給与の額よりやりがいを選びました。NGOは、ポジションがオープンになる事がすごく少ないので、このチャンスを逃したら、次はもうないと思ったのです。

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いかがでしたでしょうか。

自分には自信がないと感じていた子供時代から、次々と経験を積んで自信をつけていった20代、そして、自分が本当に好きなものは何だろうと振り返って、NGOにたどり着くまで、磯部さんの半生はとても多様ではありますが、常に全力で何かを追い求めて達成してゆく様子はひたむきで一貫しています。

NGOという選択肢は、まだまだ少数派かもしれないですが、磯部さんのように、突き詰めて考えるとNGOが天職のような人ってもっとたくさんいらっしゃるんじゃないかなと思いました。

さて、次回は磯部さんの最終回、磯部さんに”未来のこと”をお伺いしました!

現役大学院生がきく”CIジャパンスタッフの「世界を舞台に働く」”とは

次回もぜひお付き合いください!

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