国連気候変動会議/UNFCCC ボン便り:キーワードは共通だが差異ある責任と衡平性
気候変動プログラム・ディレクターのYです。昨日の内容があまりにマニアックだったので、今日は概論です。今回暗礁に乗り上げているADPですが、結局昨日20時~予定されていた全体会合は、開始30分前にキャンセル!出るつもりで別件で日本政府の方と情報交換をさせて頂いていた私は、全くこの通告に気づかず、会場に行こうとしたら戻ってくる人の波にもまれまくり、聞いたところ「さっきキャンセルになったよ、まだあの部屋の中でクローズドで話をしていて、まとまっていないよ」と言われました。現地時間24日(木)の朝、状況は変わらず。議長も決まっていません。UNFCCCのウェブサイトには、議長の選挙を実施するという南アの強行案が発表されていますが、これは前代未聞の出来事であり、選挙の結果選出された議長の元、会合がスムースに進むとも思えません。今日もぎりぎりまで、非公式の交渉が続けられ、選挙案は最後の一手となるのではとの憶測です。
なぜ、今回、昨年決定したはずのダーバン合意を進めるにあたって、このように混乱が生まれているのでしょう?一つには、議長国に名乗りを挙げている国の問題があります。それぞれ、公平に議長を務める上で他の国々から問題視されている国が立候補しています。また、今まで開催されてきた暫定的なADPの全体会合では、途上国の多くの方の発言に含まれる、2つのキーワードがあります。それは、「共通だが差異ある責任(Common but differentiated responsibilities)。」と「衡平性(Equity)」。一つ目は、気候変動は産業革命以来、化石燃料を使い経済成長を続け発展を遂げた先進国に多くの責任がある。だから、気候変動という同じ目的に立ち向かう場合でも、先進国と途上国の間には取り組み方や目標に違いが認められるべきであり、先進国は途上国への支援を実施すべきという、主に途上国側の主張です。
2つ目のキーワードが、「衡平性(Equity)」。先日、NGOの皆さんと集まり、日本からの記者さんにブリーフィングをした際、途上国が言っている「衡平性(Equity)」とは、「公平(fairness)」と、いったい何が違うのか。公平と訳しいてはいけないのか、との質問が出ました。確かに、辞書でも、Equirtyを「公平」と訳す例もありますが、国連文書のように法律的な利用の場合は「衡平性」が適切です。では、現在、多くの途上国が言及している「衡平性」とは、いったいどういう意味なのか?記者さんからご質問に対し、NGOの仲間のYさんが、「ケーキを2人で半分に分けあったのが自分は衡平だと思ったけど、もう一人は衡平だと思っていなかった」という例え話をされました。みんなで、「うーん、分かるようで、分からなーい!」と笑ってしまいましたが、大変いい例えの導入を頂いたので、自分なりにもう少し例え話を拡大解釈し、発展させてみたいと思います。(以下)。
A子さんとB夫君がつきあっていて、B夫君の誕生日が先にきました。丸いケーキを2つに分け合う時、A子さんはB夫君の誕生日なので、様々なフルーツやデコレーションがたくさんのっているほうの半分を、B夫君にあげ、「あなたの誕生日だし、2人で分けるには大きすぎるし、男だから、いっぱい食べれるでしょ」、と言いました。次に、A子さんの誕生日が来ました。B夫君は、A子さんに同じケーキを準備し、2つに切り分けた後、「女の子だから、こっちのほうは無理なんだよね?」といい、いちごやデコレーションがたくさんのっている方を、当然のように自分のお皿に乗せました。A子さんは、以前自分が認めた事と同じことをされたとはいえ、自分の誕生日なのに全く気を使わないB夫君の無神経さに悲しくなりました。そして、冷静になって思い返すと、B夫君が約束の時間に遅れたり、お金を貸しても返してくれなかったり、など自分勝手な態度が次々と思いだされ、もしかして私は間違った選択をしちゃったかな、と思い、すぐに別れを告げました。
同じ量なのに、おいしいところだけ持っていかれてしまう。気候変動のコンテクストでいえば、同じ目標を達成する上で、国としての排出量や開発の程度の差もあり、技術や能力向上、資金など、様々な支援がされるべきであるのに、このままの内容は「衡平性(Equity)」に欠ける、という発言だと思います。また、京都議定書で削減義務を負うべき多くの先進国が京都議定書から離脱しました。これでは、本当の意味で「衡平性(Equity)」のある態度を先進国が示してきたとは言えません。この事も、「衡平性(Equity)」の発言が連発されることに繋がっていると思います。一方、各国が「衡平性(Equity)」に言及する際、私は発言を聞きながら、必ずしも「衡平性(Equity)」の定義が一貫しているわけではないな、と感じました。ケーキの例えに戻れば、ケーキの上に乗っている様々なフルーツのデコレーションの、どの部分を各国が一番欲しいと思っているのかが、別れている気がします。この「衡平性(Equity)」の言葉の真理を突き、打開するリーダーシップを発揮することが、ADPの膠着した状況から脱出する一つの鍵となるのでは、と考えています。
(番外編:ボン中央駅の地下鉄に、なぜか地下鉄大阪との大きな看板が出ています。忙しくて調べていられないのですが、なんでなんでしょ?途上国に対する様々な日本のODA支援は、今後その国が気候変動の達成に貢献することを促進するため、インフラや資金支援のみでなく、きめ細やかな技術的支援が必用とされています。一方、日本の若者がどんどん内向きになっていて、今後の海外支援ニーズや競争力に応じられる人材が絶対的に不足するのではと、個人的に懸念しています。)